ベーブは、
メリーランド州サウス・ボルティモア、エモリー通り216番地に生まれた。
ドイツ系移民の母方の祖母、ピウス・シャンバーガーは室内装飾業で厳しい家計を賄い、借家に暮らした。ベーブの両親、ケイトとジョージ・シニアは、カムデン通り沿いで酒場を自営し、その2階で暮らした。ケイトは8人の子供の出産の度に、2ブロック半先の父親の家に駆け込んだ。残念なことに幼年期を迎えることができたのは、ベーブと妹のメアリーのみである。
少年時代のベーブは、遠まわしにいっても腕白坊主であった。学校をサボっては通りをうろつき、非行に手を染めた悪ガキで、7歳ごろには両親の手には負えなくなり、「セント・メアリー少年工業学校」という名の矯正学校に送られた。そこで、
ローマ・カトリックの
神父、ブラザー・マシアスと出会い、
野球を教えられたことがベーブの少年時代に決定的な影響をもたらすことになる(以後、生涯にわたってルースはマシアスを恩師と仰いだ)。ルースは、矯正学校の野球チームでは肩の強さから最初は
捕手、後に左腕
投手として活躍し、
ボルチモア・オリオールズ(当時はマイナーリーグチームで後のヤンキース)のオーナー兼監督の
ジャック・ダンに目をつけられた。ジャックは、後にルースを見出した男として名声を得ることとなる。
1914年、ダンは19歳になったルースと
ピッチャーとして契約を結び、
フロリダ州の春季キャンプに彼を帯同した。ルースはチームの主力として力強いパフォーマンスを
バットとボールで演じる一方で、早熟な才能と子供っぽい人となりから「ダンのベビー」と呼ばれた。同年
4月22日、ベーブはプロ野球の公式戦に初登板し、インターナショナル・リーグのバッファロー・バイソンズ相手に被安打6、6対0で勝利した。
ルースの初シーズン半ばまでオリオールズはリーグ首位を独走し、7月4日時点で47勝22敗と25ゲームの貯金を作った。しかしながら、チームの財政状態が芳しくなかった。1914年、フェデラル・リーグが分裂し、叛旗を翻したメジャー・チームがボルティモアに移転してきた(たった2年しか続かなかったが)ことから、競争によりオリオールズの存立基盤が揺らいだ。その結果、ダンは金銭トレードでスター選手を放出することを余儀なくされた。ルースとの契約権は、他の2選手のものとともに
ボストン・レッドソックスのオーナー、ジョゼフ・ランニンに対して、一説によれば2万ドルから3万5千ドルで譲渡された。
ルースは好投手であったが、レッドソックスの先発投手陣の左腕の駒は豊富だったため、
登板機会は少なかった。1勝1敗の記録のまま数週間をベンチで過ごした後、レッドソックス傘下のマイナーチームで、インターナショナル・リーグ所属のプロヴィデンス・グレイズに降格となった。ルースは、若い投手
カール・メイズ(のちにヤンキースでもルースとチームメイトになった)とともにグレイズの優勝に貢献した。シーズン終了後、レッドソックスは再びルースを昇格させ、以後彼は引退までずっとメジャーリーグに在籍することとなる。この後、しばらくしてからルースはボストンで出会ったウェイトレスのヘレン・ウッドフォードにプロポーズし、1914年10月14日にボルティモアで結婚した。
翌シーズンのオープン戦で、ルースはレッドソックスの先発投手の地位を固めた。そしてシーズン本番、ルースをはじめとする投手の踏ん張りもあって、レッドソックスはアメリカン・リーグの
ペナントを制した。またルースも18勝8敗の好成績で、バッティングでも自らを助け、
打率.315、ホームラン4本(自身メジャー初)を放った。レッドソックスは4勝1敗で
ワールドシリーズを制したが、ビル・カリガン監督が右投手好みであったことから、ルースに登板の機会はなく、唯一の打席でも内野ゴロに終わっている。