1925年に両親の経営する会社を引き継ぐが、1928年、
世界恐慌のあおりから、他の多くの中小企業と同じように会社が倒産してしまう。1928年から1942年にかけて、まず助手として、後期は所長代理としてニュルンベルクの「ドイツ製品経済観測所」(Institut f?r Wirtschaftsbeobachtung der deutschen Fertigware)に勤務。1930年代前半に受けた大学教授資格試験は、
ナチを支持する団体に加入するのを拒んだことから不合格であったとも言われる。彼はすでに1932年から消費財生産促進を主張しており、当時主流だった保護経済主義には反対していた。
1948年の3月2日、エアハルトはFDPの推薦を受けて、連合経済地域の経済管理局長に任命されることで、西側
連合国に占領された地域の経済政策の責任者となる。計画された
通貨改革の時期について、エアハルトが連合国側から知らされたのは、予定された日時の僅か5日前、1948年6月20日のことであった。改革の前日、ラジオで強制生産管理の終了、価格の自由化を報じさせたことで、翌日
アメリカ軍政務官であった
ルシアス・D・クレイに呼び出され、勝手な判断により
連合占領法を改変したと非難を受ける。彼はそれに、「改変したのではなく、廃止したのだ!」と応じたという。彼による占領法の廃止は、
連合国軍の役所が閉まっているという理由から、あえて1948年のある日曜日に決行されたのだった。基本方針法として実現した彼の一存による決定は、今日ではその後の「経済的奇跡」の重要な前提であったとされている。