国鉄時代の
1946年2月に結成され組合員対象者ほとんど全員を組織した。後に国鉄機関車労働組合(機労)などが次々分裂したものの、
鉄道労働組合(鉄労)や
国鉄動力車労働組合(動労、機労の後身)などと並び、国鉄の有力労組の一つであった。また、かつては労働運動の機関車役とも言われる力を持ち、
日本労働組合総評議会(総評)傘下の労組単産の中では最有力なものの一つであった。しかしながら、それが故に
日本社会党の左右両派、
民社党、
日本共産党をはじめ極左勢力までもが組織に入り込み、セクト間の対立が深刻になる。
1962年に
民社党系の構成員が脱退し、
新国鉄労働組合(
1968年鉄道労働組合と改称)として分離していた。こちらは
労使協調路線をとった。1960年代後半より国鉄当局が行った生産性向上を目的とする
マル生運動においては、国労および動労の組合員に対して当局側から組合からの脱退や、鉄道労働組合への移籍を強く勧奨する事態が起きたことから、この両組合は「マル生粉砕」をスローガンに当局との対決姿勢を強める。
1971年に公共企業体等労働委員会(公労委)が、マル生運動に関して国鉄当局側に
不当労働行為があったと認定し、当時の
磯崎叡総裁が国会で陳謝することとなった。この闘争勝利は国労の士気を大いに高め、さらなる要求の実現に向け
遵法闘争など闘争を激化させることとなる。
中でも当時法律で公共企業体職員に認められていなかった
ストライキ権の承認は最大の課題と位置づけられた。
1975年11月26日、国労は動労と共に、経営側の内諾を得てスト権承認を求める
スト権ストを起こした。しかし、
与党・
自民党の強い反発を招き、当初は妥協の構えを見せていた
三木武夫内閣もスト権容認を拒否(この動きの裏には後に
国鉄の分割・民営化を実現させた後の
総理大臣中曽根康弘の強い意志があったとされる)。
12月3日、ストの継続を断念した。スト決行にもかかわらず、国民生活には大きな影響はなく
[政府・自民党はトラック運輸業界に事前に働きかけ、スト決行時の輸送を最低限確保する手を打っていた。](サラリーマンが会社に缶詰状態になり、自宅に帰れない等の事態はあった)、国鉄の影響力の低下を表面化させただけに終わった。一方で、国民生活を巻き添えにしたことで一般市民を敵に回し、そのため組合活動への非難は決定的なものとなり、国鉄当局も再び対決姿勢を迫られた。
1976年2月、国鉄は違法なストにより損害を被ったとして、国労と動労に202億円の損害賠償を求める訴訟を起こした。自民党は
三塚博を委員長とした
国鉄再建小委員会を組織し、組合批判を強めた。一方、当の国労はセクト間対立が深刻なものとなり、穏健な労使関係の構築を目指す勢力もあれば公然と革命を主張する勢力まで多岐にわたり、組織としての意志決定能力を失いつつあった。端的な例が
1975年のスト権ストの収拾にあたり、
動労と内々に決めたストライキ戦術放棄の件である。意志決定能力を欠いた国労は「まず動労が決めないと国労は意見がまとまらない」と動労に対し先にストライキ放棄宣言を求めたが、国労側は意見が分裂し結局ストライキ放棄を決めることができなかった。この件で国労に梯子を外された格好の動労は激怒し、両者の路線対立は決定的になる。
従来は、当局側は最大組合の国労と真っ先に交渉し、国労とある程度の合意ができてから、他の労組と交渉していたが、これを全組合横一線に変えた。当局側は分割・民営化などへの協力を求める労使共同宣言を提案したが、国労は賛否をめぐって内部対立が深刻になったものの結局は拒否し、動労・鉄労・全施労は応じた。しかし実は、動労には内密に、当局に対する訴訟を取り下げるなら202億円の損害賠償訴訟を取り下げると持ちかけ、承諾を得ていた。鉄労にも、動労への交渉の内容を伝えて
根回しし、賛同を得た。しかし国労には何も連絡は無く、このような交換条件が出されることもなかった
[葛西敬之『国鉄改革の真実 「宮廷革命」と「啓蒙運動」』 pp.134-135][萩尾健太 [外部リンク] 葛西敬之が国労を分裂に追い込んだ「最後の一手」]。