航空路線としては、海軍の九七式飛行艇を民間輸送機型によってサイパンやパラオといった
南洋群島への長距離路線が運航されたほか、後世日本の傀儡国とされた
満州国の首都
新京(現在の
長春)を結ぶ航空路も開設されていた。また
タイの
バンコク線によって欧州系航空会社の極東線との連絡が可能となり、日本と欧州を結ぶ航空路が連結されていた。
だが、太平洋戦争の開戦とともに、大日本航空が運航する路線は軍の管理下に置かれ、さらに新たに占領した東南アジアにおけるネットワークを拡大し、戦争中は軍事的に重要な輸送手段となっていた。大日本航空の機材や乗員の多くは開戦直前に陸軍が編成した「特設第十三輸送飛行隊」に編入され南方地域をへの運航を担い、さらには「南方航空輸送部」に組織改変された。
日本が
1945年(昭和20年)
8月14日に
ポツダム宣言受諾を決定したため、軍隊は即日武装解除されることになった。民間航空についても飛行機の所有・運用も一切禁止され、飛行活動に従事する組織も廃止・解散させられることになった。そのため大日本航空も解散させられることになり、戦後処理のために日本国内で運航されていた
緑十字飛行も
10月7日に終了し、11月18日に
GHQが布告した 「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」(
SCAPIN-301)によって日本人による航空活動は一切禁止され、
1952年に再開が認められ日本航空の初号機が飛行するまで日の丸を付けた航空機が日本の空に飛ぶことは無かった。