大阪市東区玉造(現
中央区玉造)で町工場を経営していた父親が、
村山実・
藤本勝巳ら
阪神タイガースの選手と親交があったことから、幼少時よりタイガースと縁深く育った。幼稚園児の頃に、当時のタイガース
三塁手三宅秀史とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという。後に阪神に入団した岡田が
背番号16を希望したのは、かつて三宅がつけていた番号だからである。また父の会社では草野球チームを結成し、彰布少年も投手として村山の背番号「11」を付けてマウンドに登った
[岡田の証言によれば、野手は阪神2軍の若手選手だったという]。岡田家では、岡田の小学生時代から
阪神甲子園球場の年間指定席を取っていたが、その場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく、敵側ベンチのある三塁側ベンチ横だった。その場所は阪神のライバル・
読売ジャイアンツの三塁手・
長嶋茂雄を一番近くで見ることができるので、そこからヤジを飛ばすためという理由だった
[宝島社『別冊宝島 プロ野球名選手読本』1998年]。
早稲田大学野球部の
セレクションを受け、15打数14安打14
本塁打という驚異的な打撃をみせて合格。早大では1年生秋から三塁手としてレギュラーに入り、
法政大学の
江川卓から3安打を打ち注目される。2年生からは主軸に定着し、春の大会では主将として
東京六大学野球リーグ連覇に貢献した。学生時代より人柄の良さは知られており、人望が厚く先輩後輩問わず慕われてきたその人心掌握術によって早くから幹部候補生として期待されていた。主将になってからは自分で
スタメンを決めていた。一方で、「熱狂的阪神タイガースファンクラブ(早大猛虎)」という学生の応援サークルに所属しており、一般学生と一緒にコンパやソフトボールを楽しむ一面もあった。
東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したため、プロ野球各球団の岡田獲得競争は加熱。1979年秋の
ドラフト会議の目玉となった。
逆指名・自由獲得枠のない当時、指名前に選手側が希望球団を公言することはできなかったが、記者の取材に「(希望は)どことは言えないが
セ・リーグの在阪球団である(セ・リーグの在阪球団はもちろん阪神しかない)
[2009年に発売された『阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎列伝』Vol.11収録のインタビューでは「ボクは一人っ子だったことで母が「関西に帰ってきて欲しい」と思っていたから、実際は阪神だけでなく阪急・近鉄・南海という関西の球団ならどこでもよかった(なおこの3球団は全て岡田を1位指名している)と語っている。]」と答えた。ドラフトでは6球団が1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得。岡田の阪神入団が決まった。