入団後は「将来の4番候補」として期待され、自身もその意気込みを「
空に向かって打つ」と宣言する。2年目の
2000年には16本、翌年は18本と2桁本塁打をマークし、
2002年は本塁打28本と初の20本越えを果たす。
オールスターにも初めて出場。この時新井に目をかけていた広島のオーナー
松田耕平(当時)に見送られたが、その直後に松田が他界した。新井は第2戦で本塁打を放ち、松田への手向けとした。
2003年、前年オフに
阪神タイガースに移籍した
金本知憲の後を継ぐ4番に開幕から座るが、地元出身のスラッガーという重圧、また精神的主柱でもあった金本の不在は大きく、不振に陥って後半戦からは
アンディ・シーツに4番を譲り、前年28本の本塁打も19本に落ち込み、打率も.236と低迷した。
2004年も極度の打撃不振に陥り、本塁打は僅かに10本、打点も.263と前年よりやや上げたものの、物足りない感じに終わった。構えた際のグリップの位置が低く、さらに上下するという悪フォームで結果を恐れるあまり、ボールを待ちすぎ、追い込まれて打ち取られるパターンを繰り返した。この年12月に結婚、披露宴の席で
山本浩二に叱咤激励された。
2005年シーズン、
内田順三コーチとともに、グリップを高くし足を上げる、また積極的に打ちに行く打撃スタイルへ改造する。これが成功し、43本塁打で
本塁打王を獲得、更に初の打率3割(.305)を記録する。6月28日の対阪神戦では
リチャード・ランスに並ぶ球団タイ記録の
6試合連続本塁打を放つなど自身最高の成績を残す。しかしこの翌日は無安打に封じ込まれてしまい、惜しくも
ランディ・バースと
王貞治が持つ日本記録(7試合)には届かなかった。また、山本浩二の持つ球団年間本塁打記録(44本)を破るのではないかと期待されたが、1本差で届かなかった。シーズン終盤は打球を右肩に受けた影響で一塁手として出場する場面も見られた
[同時に一塁手の栗原は三塁手で出場]。
2006年1月、これまで金本や
佐々岡真司らと共に行っていた
鹿児島・
最福寺での護摩行合宿を単独で3泊4日かけて行った。2003年に4番として失敗していることもあり、本人はこのシーズンこそ正念場と位置づけていた。前年のタイトル獲得が評価され、
WBC日本代表にも選ばれる。しかし、出場機会はごくわずかであった。シーズンでは、
マーティ・レオ・ブラウン監督が掲げているケースバッティングを心がけたのが実を結び、本塁打数は25本と減少したものの、本塁打が43本ながら94打点に終わった前シーズンに対し、ランナーを置いての打撃が向上して100打点に到達した。一方、これまでのシーズン同様、積極的に打ちに行く打撃スタイルゆえか、
四球数が少なく選球眼の悪さを指摘された。