三職は、
小御所会議(
三職会議)を開催して、徳川慶喜の辞官納地(
内大臣の辞任と領地の一部返納)などを決定した。その後、総裁の熾仁親王が、すぐに
戊辰戦争における
東征大総督として関東に出征してしまったため、実際には政務の中心となることはなかった。翌明治元年1月17日、三職の下に神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度の七科を置いて
三職七科とし、同年2月3日には科を局として総裁局を設置し
三職八局とした。また、このとき、総裁局に副総裁を置いて
三条実美と
岩倉具視をこれに任命し、実際の政務を執ることとなった。副総裁の月給は、総裁に準じて金1000両と定められた。
法令にいう
総裁は、国家公務員法による中央人事行政機関である
人事院に置かれる人事院総裁があげられる。人事院総裁は、人事院を構成する人事官のうち1人が総裁に命ぜられ、内閣が、任命する(国公4条2項、11条1項)。人事院総裁は、院務を総理し、人事院を代表するとされる(国公11条2項)。また、
日本銀行など特別法により設立される
特殊法人においても、その法人を代表し、その業務を総理する権限を有する役員の職名として定めることがある。この例として、日本銀行法による
日本銀行総裁があげられる。