典型的な集団就職として、
農家の次男以降の子が、
中学校や
高校を卒業した直後に、都市部の
工場などに就職するために、
臨時列車に乗って旅立つ集団就職列車が有名である。集団就職列車は
1954年(昭和29年)4月5日15時33分青森発上野行き臨時夜行列車から運行開始され、
1975年(昭和50年)に運行終了されるまでの21年間に渡って就職者を送り続けた。就職先は
東京が多く、中でも
上野駅のホームに降りる場合が多かったため、当時よく歌われた
井沢八郎の『
あゝ上野駅』という歌がその情景を表しているとして有名である。
こういった若年の労働者は、将来性が高いという意味と、安い給料で雇えるという意味から
金の卵と呼ばれてもてはやされた。就職希望者数に比べて求人数が著しく多くなった時期には、更に貴重であるとして
月の石と呼ばれたこともあった。場合によっては、
使用者側が新卒中学生を一軒一軒尋ねて募集するなどの動きも見られた。
若くしてふるさとから遠く離れ、孤独感や郷愁にかられることの多かったであろう地方出身者たちは、同様の境遇に置かれた者同士の交流を切望し、「若い根っこの会」に代表される各種のサークル活動が見られた。
都市部の人口の増加と、それに伴って各種の影響があった。都会で爆発した若者文化は、大量の若年層の人口流入によるところが大きいという人もいる。また、就職者の待遇の悪さや
学歴の低さから、その子弟の教育水準の低下が起き、
学校関係に影響を及ぼしたという人もいる。ただ、安い労働力を大量に供給する集団就職によって高度成長が支えられたと言えよう。また、1967年の美濃部亮吉都知事誕生を皮切りに、1970年代後半まで大都市を中心に見られた革新自治」の支持基盤になったとも言われている。