戦後、革新のことばが使われるようになったのは、1955年に
自由党と
日本民主党とが合同して
自由民主党を結成したことを「
保守合同」と称したことから、対抗する政党を自認していた
日本社会党と、その影響下にある勢力が使い始めたものである(
55年体制成立)。実際の政治の場面での革新という用語は、1967年の
東京都知事選挙で、日本社会党や
日本共産党が共同で推した
美濃部亮吉が当選したことで、
京都府知事であった
蜷川虎三とあわせて〈
革新自治体〉という表現が広く使われるようになったと考えてよい。これに社会党代議士から横浜市長に転じた
飛鳥田一雄も含めて、社会党と共産党の共闘を軸とする革新連合が政治の話題となったのである。これには、党綱領で連合政権を目標として明確に掲げていた日本共産党が
1969年の総選挙で14議席を獲得し、発言力が増したこととも関連する。
1971年の
統一地方選挙では、東京都の美濃部、
横浜市の飛鳥田の再選をはじめ、
大阪府の
黒田了一、
川崎市の
伊藤三郎など、各地で社共両党の共闘による新首長が誕生し、道府県議選挙でも、日本共産党が
公明党や
民社党の議席を上回る状況が生じた。また、
1972年の総選挙では、共産党が野党第2党に躍進した。統一地方選挙の時期以外にも、埼玉・滋賀・岡山・香川などの各県で、また名古屋・神戸などの政令指定都市でも革新派が当選した。この結果は公明党の戦略にも変更をもたらし、一時期ではあるが
日米安全保障条約の廃棄を主張するようにもなった。〈革新〉ということばが、安保条約と、当時問題になっていた
公害問題をめぐっての大企業への規制への態度を基準として計られるようになった。
1970年代後半には、国政レベルでは、社会党の全野党共闘論と、共産党のとりあえず一致できる点での共闘という
社共共闘先行論との対立があり、国政選挙での選挙協力は参議院選挙における沖縄選挙区のケースを除いてはほとんど成立しなかった。また、地方政治においても、いままでの革新自治体が政策の基盤にしていた福祉の充実による民政安定が、
高度経済成長の失速による自治体への税収の不安定化のために、財政的な裏づけが困難になり、いくつかの自治体では財政破綻につながる状況になったことで、革新自治体の継続が困難になっていった。さらに、1980年1月の、社会党と公明党との間で締結された政権合意(
社公合意)に、日本共産党は政権協議の対象としない、と明確に位置づけられたことで、それまでの革新路線は政党間の政策課題としては終結した。過去の蓄積のために、社会党や共産党(沖縄県ではさらに
沖縄社会大衆党)を革新という習慣はしばらくメディアの上で残ってはいるが、それがどういう実態を示しているのかは検証の余地がある。