同小学科を経て(
1909年入学)、
大正4年(
1915年)には学習院女学部中学科進学。在学中の大正7年(
1918年)
1月14日に
皇太子裕仁親王の妃に内定。内定の理由には、彼女の性格や素質以外にも、
明治天皇が久邇宮家を気にかけていたこと等が挙げられる。内定にともない学習院を退学し、同年
4月13日以降久邇宮邸内に設けられた学問所で皇后としての教育を受ける。学問所は"お花御殿"と呼ばれ、妹たちの他・親しい学友が学習院の授業を終えた後に通い、ともに学んだ。学問所の建物はその後
東京都立駒場高校に下賜され、部活動等に利用された。
大正9年(
1920年)
5月7日に裕仁親王が
元服礼を行ったことをうけて、同年
6月10日に正式に婚約が内定する。しかし、大正10年(
1921年)に入って母系
島津家に
色盲の
遺伝があり、皇太子妃として不適当として
元老山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退をせまったいわゆる"
宮中某重大事件"がおこる。事件の内容は極秘扱いされたが、世上さまざまな憶測が流れ、なかでも宮中に影響力を保持しようとする山県の策略とする見解が強かったため良子女王に同情があつまり、
原敬らの反山県勢力が山県追落しにこの事件を利用したこともあって、最終的には翌年
2月10日に
宮内省から「良子女王殿下東宮妃内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし」の発表が行われて事件は決着した(翌日づけで新聞記事解禁)。最終的な決め手のひとつが、
生物学者でもあった裕仁親王の決断であったといわれている。